同人誌のあとがきに追記するエッセイ

自分を含めたほとんどの人の、日々の関心からはすでに離れてしまった作品が、時おり心を掠めることがある。

その頃一緒に盛り上がった知り合いたちも、いつの間にか新しい話題の比率が増えて、特に言及することなくなってしまっている作品だ。
自分自身も時どき思い出して10分後には忙しさに取り紛れて忘れてしまっている、そういうことがある。
ある事象が、時が経つにつれて人の言の葉に乗らなくなることは、当然に起こることである。悲しんではいられない。変わることは悲しいことではない。時が経つことは誰かが止められるものではないのだから。
小説や映画が、歴史の中で残ったり残らなかったりすることを、「時の試練」と表現することがあるが、あるいはこれも「時の試練」の一種かもしれないとも思う。

別の話をする。作られてからほとんど他の人に読まれたことのない報告書が、この世には存在する。私も編纂に関わったことがある。いわば作られることがその時の目的で、広く読まれることを前提としていないものだ。
たとえば大学の卒業論文の多くも似た運命にある。それでも卒業にあたりレビューされるのでそれで十分存在意義を全うしたと考えられる。
知の営みにはおおむねそういう側面があるのかもしれない。大海に投げ込まれたボトルメールのようなもので、低い可能性とは知りながら、いつかどこかの誰かに届いてほしいというささやかな願いがこめられているのだ。そして、そういったものにたまたま触れたとき、その当時文書の編纂に関わった人々の営みや悩みが、読んだ自分に実感を持って立ち昇ってくることがある。

話はさらに飛び、アニメの話になる。 私が好きなコンテンツであるところの「放課後のプレアデス」は、2015年にテレビシリーズとして放送された作品である。これについては、もっと詳しいサイトがいっぱいあるだろう。いずれ自分の中でも消化するための記事は書きたいが、それは今日ではない。
年あたり200以上の新規のテレビアニメ作品が増えている現代に、三年も前に放送されたいちアニメの、さらにいち同人誌やブログエントリを見ること自体稀有なことである。
これを読んでいるあなたは、たとえば2020年の未来に(今は2018年だ)遅れてこのコンテンツにハマって二次創作を探している最中にウェブの片隅でよく分からないエッセイを不意に見つけたのかもしれない。あるいは昔好きだったコンテンツをなんらかの偶然で思い出して検索したのかもしれない。もちろん、まだ毎日このコンテンツを検索している人かもしれないが。

ここに来て、上記の3つの話が合流する。
先日「放課後のプレアデス」の二次創作小説「祈りは物理に従わない」を頒布した。
私は、この二次創作のなかで、作中の関係を想起させるだけでなく、作品と視聴者の関係を想起させたいと思っていた。
「遠い未来にたまたま物語に触れた会長ないし会長の仲間」という作中の関係のみならず「ブームが過ぎたアニメの同人誌を遅れて読んだ人」や「過去には好きだったけど今はほとんど言及することがなくなって、たまたま思い出して物語に触れた人」という作品と読者という関係も意識している。
前者の作中の関係については言うまでもない。作中の会長が、いずれ未来の中で「自分が覚えていない記憶に関する記録」に触れたときの気持ちを想像することになる(それができるほどの筆力があるかは疑問だが)。
後者について、昔一緒に同じコンテンツについて盛り上がっていたことに対する憧憬(のようなもの)が込められている。読んだ人が、少しでも当時盛り上がっていたときの感覚に近づいて欲しいというものだ。
それは、人によっては当時を"思い出す"ことになるのかもしれないし、人によってはその当時を"想像"することになるのかもしれない。実際のところ、それはどっちでもいい。遠く離れた過去に思いを馳せることは、どちらも似たようなものだからだ。
だから、きっとほとんどの人の人生には関係のない、ほとんど読まれることのない物語を、もしかしたら届いてくれるかもしれない、とささやかな願いを込めて綴っている。
実際、その同人誌だってたかだか40部程度しか頒布されていない。
このブログ記事を読んでいる人と同人誌を読んだ人の積集合なんてせいぜい5人程度だろう。

時間が経つにつれ、ひとり抜け、ふたり抜けているこのジャンルに、私はまだいる。たまたまかもしれないけれど、まだ私はここにいるのだ。
そしてそこで、読まれる可能性の低い物語を綴っている。
この立ち位置は、今回私が書いた物語における会長の立場に似ている。
だから、この物語は会長から未来の会長への物語であると同時に、私から同じファンのみんな(そしていつかの未来、この物語にたどり着いた同じファン)への物語だ、たぶん、きっと。

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