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フォトカノについて

目次

これを書いた動機

すでにレコラヴという正統進化版(話につながりはないものと思う)があるのだから、今更フォトカノを紹介するのも微妙かとも思ったが、たまたまPS Plus1月のフリープレイにフォトカノがあるという情報を昨日得たのでフォトカノについて書かねばならない気持ちが湧いてきた。
私はこれからフォトカノについてつらつらと書くが、まだPSP版、PS Vita版とも、半分くらいのキャラクターしかクリアしていないし、攻略サイトなどを見ていないため、どのキャラが攻略対象なのかなど分かっていないことも多い。

フォトカノとの出会い

CMで初めてフォトカノという作品を見たとき、そのキャラデザを見て気にはなったが、すぐさまゲームの購入予約をすることはなかった。
なにやら発売日が遅れているという情報は見ていた。そのうち仕事などで忙しく過ごしていると、いつのまにやらアニメが流れていた。
このアニメはPS Vita版であるフォトカノKissの販促だったようだ。
アニメは(ストーリーライン自体に好き嫌いはあろうが)大まかにおすすめできる。
13話構成で、最初の4話がキャラ紹介を兼ねてひと段落つく。それからはオムニバス形式で各キャラを掘り下げて語られる。
中でも8話の室戸先輩の話は、無理な話の展開も少なく、なかなかにいい話である。8話のために全話ぜひ見ていただきたい。

アニメが終わってからだいぶ経ったあと、アニメ版面白かったな、という薄ぼんやりとした記憶が湧いてきた。
そんな折(今から数か月前のことである)たまたまPSP版を購入する機会に恵まれ、ぽちぽちと少しずつ進めていたのであるが、あるシナリオで唐突にこれは名作だと思い、思い立った次の日にはPS Vita版を購入していた。

ゲームについての説明、PSP版とPS Vita版の比較

名作である理由を書く前に簡単にゲームの説明をせねばならない。
まず、PSP版とPS Vita版はだいぶ違う。
攻略可能キャラクターも違えば、キャラクターの書き込みも異なる。PSP版よりPS Vita版の方が段違いでよい。絵については両機種の解像度の問題もある。PSP版は、味がある、とでも表現するよりほかない。
そして操作感覚やゲーム体験がまったく違う。PSP版はメディアインストールしておかねばまったく遊べたものではないほどに遅い。一方、PS Vita版はサクサクと動く。
ゲーム体験としては、果音(妹。分かると思うがカメラメーカーであるCanonと掛けている)をどう扱うかがだいぶ違う。PSP版はゲームを有利に進めるためにほぼ毎日果音に会う必要があり、正直面倒である。
なので、ゲーム性をどこに求めるかというところはあるものの、今手に入れるなら遊びやすいという点でPS Vita版一択であろう。

しかしながら、PSP版にはPSP版の良さがある。
例えば、写真撮影のセンスが徐々に鍛えられるという点ではPSP版の方が良さそうである。
PSP版では、最初の2,3キャラをクリアするまでは正直いまいちな写真しか撮れない(特殊なイベントは除く)。それは撮影時に自分が移動できる範囲が狭いためいい構図を取りにくいためかもしれないし、そのうえ良い写真を撮ったか否かという点数計算アルゴリズムがシビアなせいかもしれない。
そのくせ点数を稼がないと撮影時の移動範囲は狭いままだし、撮影回数も少ないままだ。実際、私も最初の数キャラを攻略するまではフラストレーションが溜まっていた。
だが、徐々に自分の撮影できる範囲が増えていくため、試行錯誤をしやすい。写真撮影の学習曲線に合っていると感じられる。いつの間にやら、こう撮影したら綺麗なんじゃないか、というような考えが自然とできてくる点は高く評価できる。きっと実際のカメラ撮影でも特に構図の作り方については、うまくなるような気はする。

PSP版は面倒くさいという印象を与えてしまったかもしれないが、必ずしも点数を稼ぐのが面倒というわけでもない。各キャラのエンディング直前になるとボーナスステージ状態になるので、そこまでいけば点数を稼ぐことも困難というほどではない(だが、効率のみを追求して点数を稼ぐためには、仲良くなった女子の胸や尻に密着して写真を撮るような変態じみた行為をする必要はあるのでそれはそれで微妙である)。

私にとって名作である理由

だいぶ脱線した気がする。上記のことを前提として私がPSPフォトカノおよびPS Vita版フォトカノKissをなぜ名作と感じているかを描かねばならない。
本作は、ありていに言って「写真を通じて、女の子と仲良くなる」作品である。
さまざまなイベントを通じて仲良くなるのだが、仲良くなって写真を撮っていくうちに(上でも触れた通り)だんだん自分の撮影の範囲が広がっていく。
そして、気づくと、もっともっといろいろな写真を撮ってみたくなってくるのだ。
単純に写真撮影が面白くなるうえに、キャラクターに感情移入したり、自分好みのキャラクターがいたり、キャラクターとの距離が詰まっていけばさらにその気持ちは強くなりいろいろと撮影して彼女たちを記録したくなるのである。
低いアングルから撮りたいとか高いアングルから撮りたいとか、
午前中に体操着を撮りたいとか、午後の夕焼けの中で体操着を撮りたいとか、
昼に水着を撮りたいとか、プールサイドで寝そべった水着を撮りたいとか。
(私の趣味が偏っているのではなく、そういうゲームなのだ。ほんとだよ? あと、体操服や水着の写真が撮りやすいため、やたら体育が多い学校だなって気持ちになる)

そんな感じでゲームを進めていると、あるキャラクターのあるイベントで、主人公は写真を撮るか撮らないかの選択を迫られる。
倫理的な観点から撮影をためらわせる仕掛けがあるのだ。
主人公は悩む。ここで写真を撮っていいのか、と。
しかし、その主人公の悩みは、プレイヤーである自分にも全く同じ粒度で襲い掛かってくる。
キャラクターの記録を撮りたい。今までちょっと変わった瞬間の写真は全部撮ってきたのだ。このキャラのこの顔はきっとこのイベントでしか撮れないだろう。撮りたい。しかしここで撮っていいものか、と悩むのである。
これは私が小さいころに「るろうに剣心」を読んで牙突を練習するのと同じような体験だった。ヒーローごっこをしたくなるヒーロー、聖地巡礼をしたくなるアニメやゲームと同じように、自分に対して創作物がその枠を超えて自分に働きかけてくるのだ。

結局自分はその写真を撮ることはできなかった。
ゲームをほったらかしにしたまま10分くらい悩んで、最終的に撮らなかったのである。
もしかしたら撮影しようとしてもゲームの仕様として弾かれてしまうのかもしれない。だが、その選択肢を選べなかった。ゲームだから、やり直しだってきくはずだ。もう一度プレイすれば、あるいは直前でセーブして戻れば、もう一方の選択肢を選ぶこともできるだろうが、選ぶ気になれなかった。自分はそう決断したのだった。

撮らなかったことで彼女の記録はひとつ減ってしまったし、その日の写真はアルバム(自分が撮影した写真は後からアルバムの形式で見直すことができる)から抜けたままである。しかし、撮影しなかったために、そのキャラクターと、そのイベントのことが自分の記憶の中にむしろ強く刻まれたようにも感じる。
そして、そのイベントのあと、自分の写真の質が少し変わったように思った。
キャラクターが変わったのではない。撮影する自分側の感覚が変わったのだ。単なる感傷で勘違いしているだけという可能性もあるが。

いつか、ふとこのゲームを起動してアルバムを見直したときには、きっとそのイベントのことを忘れている気はする。それでも、自分がこのゲームを通じてなにか変わった気がするという気持ちだけはずっと心の中に残るのだと思う。記憶がなくてもこのゲーム内の「日々」を、楽しかった「日々」だったな、と思うのではないか。それはとても幸せなことで、きっとそれが自分にとってこのゲームが名作な理由である。